刀傷
1865年(慶応元年)12月16日、高杉晋作萩藩下関会所襲撃占拠の頃、高杉晋作等首領グループは、功山寺で決起し、新地会所を襲撃し、下関市街を制圧しました。
この時彼らは、選挙した萩会所に拠点(本営)をおかず、高台の了圓寺に拠点(本営)をおき、探訪しました。
了圓寺の刀傷はこの決起の内、誰かの所作で生まれたと伝えられています。
山門
山門は長府藩が攘夷戦に備えて築いた勝山城から移築されたものです。
明治に勝山城が解体されてた際、維新に貢献した同寺に運ばれました。
丘道徹師
明治23年9月、全国で8番目の免囚保護団体下関保護院創立。寺院境内に保護寮建役。非行少年・引受人のいない刑務所出所者等3503人収容保護し、更生援助に努め、更生保護事業の先達として全国の関係者から崇拝されていました。
山門入口の像は功績を検証する目的で平成7年1月に建て、山口保護観察所々長名で碑が刻まれています。